脚本による稽古で、脚本以外の会話が入ることがある。
それは脱線なのか?
日常会話において、目的だけを端的に伝達することがどれだけあるか?
とは言えリアルを追求することが必ずしも作品の質をあげるのか?
例えば、ラストサムライのキスシーンは史実の流れから見ればリアルではない。ただ虚構を成す作為と見ればギリギリを行く表現。
作為は主観、リアルを追うのは客観。
このバランスが難しい。リ
アルと作為は対立項ではなく、別次元の思考。

因果律思考はリアルであり、作為であり…。ストーリー的思考も主観であり、客観である。ただ、角度が平面的になり、深みが足りなくなる。裏をかこうとしすぎると作為が強くなり、即応できなくなる。
その上での「余韻と勢い」による表現とは?
もう一度認識しなおすために、即応を意識したエチュードを繰り返してみる。

都内で役者をやる方はフリーが多い。
フリーが多いと言うことは、呼ばれて脚本見て、いかに早く読み込み解釈して、その場で表現できるかが大事。
即応・・・しないと芝居以前に人間同士が絡めない。

エチュードなどでも、いかに「自然」に見えるか、どう見えるのか、いかに面白くやれるかを考えすぎてやると即応できない。
勢いは消える。
時にはその場でのコンタクトをしっかり意識したい。

「自然」にこだわることがある意味「リアル」への傾倒なんだと思う。
きっかけは主観である「作為」からなんだ。それを受け止め発展させるのがかけあい。「有り得ない」状況を真面目にやると存在しないリアルを感じさせる場合がある。
オファーとレシーブの関係により掛け合いが生まれる。次にどうしようと作為に作為をもって対応するとリアルでない、つまり不自然になる。
ギブアンドテイク。
頭での判断より、場を感じて素直に体を反応させることも必要。

うちは受け手ばかりで、作為をもって仕掛けられる人がいない。そのわりにはしっかりレシーブもしてない。

強烈な作為を持てる人同士の場面は勢いがでる。
それでも一度は受け入れてるんだ。
感度の高い受け手同士だと余韻が漂う。

しっかりとしたコンタクトを持てる役者の演技って基本なんだが、なかなか難しいものさ。

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